むかしむかし、まだ世界が昼と夜に分かれて間もない頃、ひとりの女神がいた。
 彼女は、ひとを喰らう魔神だった。
 だから、多くのひとから恐れられ、忌み嫌われた。
 彼女はそのことは別に気にも留めなかったけれど、やがて多くのひとが、神様に彼女を退治するように祈るようになった。
 それから彼女は、これまでのように堂々とひとを襲うことが出来なくなった。

 彼女は考えた末に、近いうちに死ぬ運命にあるひとだけ食べる事を神々の王様に誓った。
 ひとが、野菜や獣の肉、魚などを食べないと飢えて死んでしまうように、彼女も、ひとを食べないと飢えて死んでしまう。
 だから彼女は、ひとを食べることを辞めることはできないのだ。

 すると、神々の王様は、ひとりの神様を彼女に紹介した。
 「この者と共にいれば、死ぬ運命にある者が誰かすぐに解る。だから、お前が飢えることはなくなる。いっそのこと妃になるのも、悪い話では無い。そうだろう?」
 そう言って、その神様の元に向かうことを薦めた。
 すこし強い物言いが気になったけれど、彼女はその話に乗ることにした。

 そうして彼女が向かった先は、死者の国だった。彼女は、死者の国の王様の妃となったのだ。
 妃として死者の国を訪れた女は他にも何人かいて、それぞれが、美しさや気だての良さを競い合っていた。でもそれは、彼女にとってはどうでも良いことだった。
 ただ、「毎日食べるものに困らないのなら、ただで側に置いて貰うのも悪い。だから自分に出来ることをしよう」とだけ思っていた。
 彼女は、王様が必要とするだけの身の回りの世話や、職務の手伝いをした。あとの方は、たんに食事も兼ねていただけの場合も多かったけど。
 王様は、そんな彼女に対して、必要なだけのお礼をした。

 さて、死者の国の王様はとても仕事熱心なひとだった。けれど−若しくは、だからと言うべきだろうか、妃たちの事を構うことは、ほとんどなかった。
 王様は、職務の時間が過ぎても、ひとりの時間を過ごすことを好んだ。ひとりになった王様は、よく宮殿の裏庭へ向かった。そこにある、小さな泉の水面をぼうっとを見つめていた。妃たちのことなど、目に入ってはいなかった。
 妃たちはそんな王様の気を引こうと、あれこれ躍起になった。だけど、結局何をしても振り向いてもらえないことがわかったら、みんな王様のもとを去っていった。
 そうして、死者の国の王妃様は、人食いである彼女だけになった。

 おおくの妃に逃げられたというのに、王様は相変わらずだった。
 職務をこなした後は、相変わらずひとりで過ごすことを望んだ。ひとりで、遠いところを見つめていた。
 そして、彼女への態度も、今までより優しくなることはなかった。冷たくなることもなかったけれど。

 そんな訳で彼女は、名ばかり、形ばかりの王妃だったけれど、不思議と居心地の悪さは感じなかった。
 王妃としての暮らしは、最初に想像していたのと違ったけれど、退治されることも、人食いの魔神だからと忌み嫌われることもないから、快適だったのだ。
 何より、食べるものには困らなかったので、これはこれで悪くはないと思った。

 −結局、王様が罪を犯して、王様ではなくなってしまったことで、そんな暮らしも終わりを迎えたのだけれど。


 死者の国から王様がいなくなってから、長い時間が経った。
 彼女は今、違う神様に仕えて、相変わらずひとを食べて暮らしている。

 彼女はふと、王様と過ごした時間を思い出す。

 −あの日々は、あたしにとっては悪いものではなかった。
 …最後まで彼の心を揺さぶることはできなかったのは、少し悔しいような気もするけど。

 そして、思いのほか王様のことを気に掛けてる自分に少し驚いた。
 驚いたけれど、その気持ちはすんなりと、彼女のこころの中に溶けていった。

 −あいつは今、どこにいるのかな。どこかで野垂れ死んでなければいいけど。

 死者の国を追放されて、今はもう、どこに居るのかもわからない王様のことを想う。

 −パールヴァティー様の話によると、死者の国は、あの頃とはすっかり変わってしまったらしい。
 きっと、あたし達が共に暮らした宮殿も、今は朽ち果てているのだろう。
 …そういえば、あいつは、裏庭の泉で、もの思いに耽るのが好きだったな。

 いつもひとりで、遠い遠いところにいる、水面に映った「誰か」のことを見つめ続けていた王様の事を想う。

 −あいつにとっては、その「誰か」以外の事なんて、どうで良いことだったのかも知れない。
 あの頃のあたしにとって、「食べること」以外はどうでも良かったように。

 そう思うと、胸とおなかの間がきゅっと握りしめられたような感じがした。

 −きっと、久しぶりに考え事なんかしたからお腹が空いたんだ。そうに違いない。

 彼女はそう思うことにして、これ以上このことを考えるのをやめた。今は思い出に浸るより、お腹を満たすことが先だと思った。
 
 
 彼女が、かつて「飢え」から満たしてくれたひとと再会できたのは、まだ先のお話。